笠間稲荷神社のご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、正一位という最高の位をもつ神様です。
日本三大稲荷のひとつである当社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉(はくち)2年(651年)とされ、1360年程の歴史を有する由緒ある神社です。

 奈良時代の和銅6年(713年)に、元明天皇の詔によって編纂が命じられました「風土記」のうちの「常陸国風土記」には、「新治の郡より東五十里に笠間の村あり」と記されていますが、その頃には笠間のこの地で「古事記」や「日本書紀」に描かれています宇迦之御魂神への信仰が深く根ざしていたと考えられます。

 食物の神さま、農業の神さまとして崇敬されていました笠間稲荷大神さまは、商工業が盛んになるにつれて殖産興業の神さまとしての信仰も広まり、近世になると農家ばかりでなく商家、町屋、武士、大名にいたるまで御分霊をいただき、屋敷神や家庭神、地域神としてお祀りされるようになりました。

 とりわけ江戸時代には歴代笠間藩主の崇敬が篤く、初代藩主の松平康重公は丹波篠山に移ってからも笠間稲荷大神さまの御分霊をお迎えし、それが今の王子山稲荷となっています。第三代藩主の松平(戸田)康長公は信濃国松本へ転封した際に城内に御分霊をお祀りし、末永く崇敬しました。
第四代藩主の永井直勝公は古河藩へ移動後も御分霊をお祀りし、その領民たちが奉納した神馬像が現在の楼門にある神馬像だと言われています。第五代藩主が忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩公の曾祖父、浅野長重公で、第六代藩主が祖父、浅野長直公です。大石内蔵助も笠間藩から笠間稲荷大神さまの御分霊をいただいて邸内にお祀りし、大石稲荷神社となっています。浅野家、大石家とも笠間から赤穂へと移っても篤く崇敬し続けました。第十三代藩主の井上正賢公は、夢に笠間稲荷大神が現れたことにより、いっそう深く霊験を感じて笠間稲荷神社を歴代藩主の祈願所として定めて社地社殿の拡張に努めました。第十四代藩主の牧野貞通公は、先例にならって笠間稲荷神社を牧野家の祈願所と定めるとともに、境内地や祭器具などを寄進しました。以後、笠間藩は明治維新まで牧野家が領有することになり、神社の発展に尽くしました。第十五代藩主の牧野貞長公はご神徳のあらかたさを感じて、京へ具申して勅許を受け、正一位稲荷大明神の神位を大神さまに賜りました。

 牧野家を除く歴代藩主の多くは他藩へ転封していきましたが、笠間を離れても崇敬心は変わらず、御分霊を新たな領地にお祀りしています。それにより藩主の篤い崇敬が領民へ広まり、さらに領外の民へと広まっていきました。