生命の根源を司る「いのち」の根の神として農業、工業、商業、水産業など、あらゆる殖産興業の守護神として人々の生活すべてに御神徳を授けて下さる神さまです。
日本の神話が書かれている『古事記』によると、宇迦之御魂神は須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売神(かむおおいちひめのかみ)の間の御子とされています。
農牧、水産、養蚕を始めあらゆる殖産興業の神、蘇生(よみがえり)の神、生成発展の神、産霊(むすび)の神、火防の神として霊験あらたかな御神徳が普く全国の人々より崇敬されています。
往古、この地には胡桃の密林があり、そこに稲荷大神さまがお祀りされていたことから、「胡桃下稲荷」(くるみがしたいなり)とも呼ばれています。また第十三代藩主井上正賢公の一族に門三郎という人がいて、利根川流域を中心に多数の人々に功徳を施し、信仰を広めたことから「お稲荷さんの門三郎」との名声を博し、いつしか門が紋にかわり「紋三郎稲荷」とも呼ばれるようになりました。今日では関東はもとより、全国から年間350万余の人々が参拝に訪れています。
当社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉2年(651)と伝えられています。
その後幾星霜を経て、桜町天皇の御代、寛保3年(1743)には時の笠間城主井上正賢により社地社殿が拡張され、又延享4年(1747)牧野貞通が城主となるや先例により祈願所と定められ、境内地・祭器具等が寄進されました。以来歴代藩主の篤い尊崇を受けました。
笠間稲荷神社は日本三大稲荷のひとつとして広く人々に親しまれ、霊験あらたかな御神徳を慕って多くの参拝者が全国より訪れています。
御本殿は江戸時代の末期安政・万延年間(1854~1860)の再建で、銅瓦葺総欅の権現造で、昭和63年国の重要文化財に指定されています。御本殿周囲の彫刻は、当時名匠と言われた後藤縫之助の作「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」、弥勒寺音八と諸貫万五郎の作「蘭亭曲水の図」等実に精巧を極めています。
「お稲荷さん」と親しまれている稲荷大神は日本人に最も身近な神さまで、五穀豊穣、商売繁栄、殖産興業、開運招福、火防(ひぶせ)の守護神として、広大無辺のご神徳を慕って多くの人々に崇敬されています。
「イナリ」の語源については諸説があり、「イナリ」は「イネナリ(稲成、稲生り)」で、稲が育つさまを表しているとも、「イネカリ(稲刈)」の「刈」が「荷」に誤られたとも、また「イナニ(稲荷)」が「イナリ」に転訛したとも言われています。稲荷大神はご神名を宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と称し、「ウカ」とは「貴い食物」を意味します。つまり宇迦之御魂神とは、「稲に宿る神秘的な精霊」を表し、五穀をはじめ一切の食物を司る神さま、生命の根源を司る「いのち」の根の神さまです。
宇迦之御魂神は須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売神(かむおおいちひめのかみ)との間に生まれた神さまで、倉稲魂神とも書きます。
兄神には「大年神」がいらっしゃいます。父の須佐之男命は天照大神の弟神として有名ですが、母の神大市比売神はご神名に「市」をもたれるように「市場」や「流通」の神さまで、兄神の大年神は「大年(おおとし)」すなわち「大稲(おおとし)」の神さまで、私たちがお正月に「年神さまを迎える」という時の「年神さま」に当たります。
宇迦之御魂神は、「古事記」の大宜津比賈神(おおげつひめのかみ)や「日本書紀」の保食神(うけもちのかみ)と同神で、いずれも五穀の起源の神さまとして記されています。
以上のことから分かりますように、宇迦之御魂神は御自身が食物を司る神さまであるとともに、一族に流通や稲に関わる神を持つ、人間の生活にとって根源的な役割を司る神さまであられるわけです。食物の神、農業の神として崇敬された宇迦之御魂神は、民間の工業や商業が盛んになりますと興業の神としての信仰が広がっていきます。近世になると農家ばかりでなく、商家、町家、大名にいたるまで稲荷大神の広大無辺な御神徳を慕われて、殖産興業の神として稲荷大神への信仰、崇敬心が深まり、御分霊をいただいて屋敷神や家庭神、地域神としてお祀りする人々が増えていきました。
いっぱんに「お稲荷さん」と言えばキツネをイメージされる方が多いようです。キツネはあくまで稲荷大神のお使いであって、神さまそのものではありません。稲荷大神にとってキツネは、熊野神社のカラスや八幡神社のハト、氏神さまの狛犬などと同じように「神使(かみのつかい)」「眷属(けんぞく)」などと呼ばれ、神さまのお使いをする霊獣です。
これは中世の時代に、人間が持っている様々な欲望を直接神さまに祈願するのは畏れ多いとして、特別に選ばれた動物を通してお願いすることが行われたことによるものです。
キツネがお使いとして選ばれたのは、稲荷大神が農業神であることと深く結びついています。民俗学者の柳田國男も指摘しているように、日本人には古くから神道の原形として「山の神、田の神」の信仰があります。これは春になると山の神が山から里へ降り、田の神となって稲の生育を守護し、収穫が終えた秋に山へ帰って、山の神となるという信仰です。
キツネも農事の始まる初午の頃から収穫の終わる秋まで人里に姿を見せていて、田の神が山へ帰られる頃に山へ戻ります。
このように神道の原形である「田の神、山の神」と同じ時期に姿を見せるキツネの行動から、キツネが神使とされるようになりました。
このキツネが稲荷大神のご祭神と混同されるようになったのは、平安時代以降の神仏習合により、稲荷大神が仏教の守護神、茶枳尼天(だきにてん)の垂迹(すいじゃく)とされたからです。茶枳尼天はまたの名を白晨狐菩薩(びゃくしんこぼさつ)と言い、キツネの精とされました。このことから、いつの間にか一般民衆の間で、稲荷大神のご祭神とキツネが混同して理解されてしまったわけです。
また、稲荷大神のまたの名である御饌津神(みけつがみ)の「ミケツ」が混同されて、三狐神(みけつがみ)と記されたことも一因と考えられます。御饌津神とは文字通り「御(=尊称)饌(=食物)津(=の)神」で、食物を司る神を意味していて、キツネとは全く関係はありません。
稲荷大神の信仰の起源は古く、しかも、稲作文化を育ててきた日本人に最も親しみやすい神さまとして永く崇敬されてきただけに、途中にさまざまな迷信や俗信、誤解が生じたり、附会されたこともあったことと思われます。しかし、神社神道本来の心である「明き心」「清き心」「正しき心」「直き心」をもってご祭神、宇迦之御魂神のご神慮とご神徳を正しく理解して、信仰心を高め、より深い崇敬を捧げることがいっそう大切となります。
笠間稲荷神社のご祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、正一位という最高の位をもつ神様です。日本三大稲荷のひとつである当社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉(はくち)2年(651年)とされ、1360年程の歴史を有する由緒ある神社です。
奈良時代の和銅6年(713年)に、元明天皇の詔によって編纂が命じられました「風土記」のうちの「常陸国風土記」には、「新治の郡より東五十里に笠間の村あり」と記されていますが、その頃には笠間のこの地で「古事記」や「日本書紀」に描かれています宇迦之御魂神への信仰が深く根ざしていたと考えられます。
食物の神さま、農業の神さまとして崇敬されていました笠間稲荷大神さまは、商工業が盛んになるにつれて殖産興業の神さまとしての信仰も広まり、近世になると農家ばかりでなく商家、町屋、武士、大名にいたるまで御分霊をいただき、屋敷神や家庭神、地域神としてお祀りされるようになりました。
とりわけ江戸時代には歴代笠間藩主の崇敬が篤く、初代藩主の松平康重公は丹波篠山に移ってからも笠間稲荷大神さまの御分霊をお迎えし、それが今の王子山稲荷となっています。第三代藩主の松平(戸田)康長公は信濃国松本へ転封した際に城内に御分霊をお祀りし、末永く崇敬しました。
第四代藩主の永井直勝公は古河藩へ移動後も御分霊をお祀りし、その領民たちが奉納した神馬像が現在の楼門にある神馬像だと言われています。第五代藩主が忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩公の曾祖父、浅野長重公で、第六代藩主が祖父、浅野長直公です。大石内蔵助も笠間藩から笠間稲荷大神さまの御分霊をいただいて邸内にお祀りし、大石稲荷神社となっています。浅野家、大石家とも笠間から赤穂へと移っても篤く崇敬し続けました。第十三代藩主の井上正賢公は、夢に笠間稲荷大神が現れたことにより、いっそう深く霊験を感じて笠間稲荷神社を歴代藩主の祈願所として定めて社地社殿の拡張に努めました。第十四代藩主の牧野貞通公は、先例にならって笠間稲荷神社を牧野家の祈願所と定めるとともに、境内地や祭器具などを寄進しました。以後、笠間藩は明治維新まで牧野家が領有することになり、神社の発展に尽くしました。第十五代藩主の牧野貞長公はご神徳のあらかたさを感じて、京へ具申して勅許を受け、正一位稲荷大明神の神位を大神さまに賜りました。
牧野家を除く歴代藩主の多くは他藩へ転封していきましたが、笠間を離れても崇敬心は変わらず、御分霊を新たな領地にお祀りしています。それにより藩主の篤い崇敬が領民へ広まり、さらに領外の民へと広まっていきました。